読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

82段

社会学者・徳川直人の非専門・半専門の不ぞろいエッセイと日常ジャーナル

思考の枠組: 「障害者に優しく」とカラーユニバーサルデザイン

身振り手振り

www.nikkei.com

 伝えられている内容そのものは良いことだとしても、それを受け止める報道・思考の型が、15年前と変わっていない。バリアフリーユニバーサルデザインの概念的混乱もあろう。「障害」カテゴリーを適用することによる正当性の獲得と、家父長主義的(温情主義的)「優しい社会」の論理。そうではなく、まずは課題の公共性を強調すべきだろう。大津波警報ですらまちまちの色で放送されたことがもう忘却されてしまっているのだろうか(まぁ、それですら「色覚障害者」の問題、と報道されてしまったのだったが)。

 この違和感を表明する際にも注意が必要になる。第一に、「障害者」扱いが心外だ、と述べて、意図せず自分と「障害者」とを切り離してしまう落とし穴と、第二に、善意を批判することに対するラベリングとが、そこに待ち受けている。正常/異常に関する自明な境界線による切り離しがすでにそこに埋め込まれていること、しかもそれが「優しい」という言葉によって守られていることが、その落とし穴を構成している。

 もう一つ。色覚少数者の雇用はいまどうなっているのだろうか。私生活上での消費者、公共空間でのサービスの受け手として「のみ」とりあげ、生産や労働の問題(そこでの合理的配慮など)には触れないというのでは、今日水準の「差別解消」論として、果たしてどうか。

(拙facebookより)

英語で授業してみたら

身振り手振り

 先日の授業、初めて英語で話すはめになった。無理を承知で、こんな英語、へたっぴいで見てられないにちがいない、と思いながら。

 なんでも日本語を前提としない留学生受け入れプログラムが動き始めているのだという。それで「できるだけ英語対応」、少なくとも資料は英語で、という指示があったのだった。

 私はむやみな英語化には断固反対である。しかし、そのプログラム以外でも、気づいてみたら受験生の半分くらいが留学生。(大学院です)。うちの研究室は、入試科目にはないけれども実際上、日本語を課しているが、そうではない研究室もある。受け入れておいて対応しないというのも学生からしたら理不尽な話だろう。それにこれは全員必修の授業の一コマだ。

  というわけで対応することにした。前半、パワポでの話は日本語主体だがスライドに英訳をできるだけ入れ、後半は自作の英文を読み上げる形で英語主体。

 自信が持てる程度のシンプルな英語にしようとしたら内容までシンプルなものになりかねず、さりとて話の質を落とさないで上手に表現できているのかどうか、はなはだ自信が持てない。すこぶるストレスフルな準備、実行とあいなった。

 100人と少しの受講生のうち、要約や感想を書いてもらうコメントペーパーを見ると、10名少しが英語記入。留学生はもっと多いが、日本語で書いている人も珍しくないので、この10名少しはまだ日本語に慣れていない人たちにちがいない(上述プログラムの学生かどうかはわからない)。

 そうか、1割以上いるとなると・・・

 と思って読んでみると、その10名少しのうち1~2名は、その英語があやしい。主語動詞の基本構造さえ作れていない。まぁ、私と同じく読むのと書くのは大違い、という事情もあるのかもしれないが、それにしても。

 要約や感想を見る限り、全受講生の9割以上くらいには大意が伝わっているみたいだから、私の英語がでたらめすぎて意味不明、というのでもなさそうだ。

 考えてみれば、「留学生=英語」という前提そのものが「外国人=英語」という前提と同じほど、陳腐ではなかろうか。そもそも、留学生の大半は、中国、台湾、韓国など、お隣の国々の出身だ。それらの留学生のうち日本語記入した人にとっては、母語+日本語+英語の3つが求められたことになる(少数民族出身とかになると母語母国語がまた異なるので4つ)。もともと入試に英語が入っているとは言え、学生時代の私などにはできない芸当だ。

 「わかりやすい平易な日本語で対応」という選択肢もあってよいのではあるまいか。

「意識」の問題?: ①再蹂躙

身振り手振り

 日ごろ、いじめやセクハラに関して「とにかく相手が不快だと受け止めたら問題なのだ」式の説明に時々出会う。
 一見、被害者の声を尊重しているように見える。しかし、その説明の日常的使用法には危険な落とし穴が潜んでいよう。
 この言い方はすぐに裏返って「相手が不快だと感じていなければ問題はないのだ」という論理、さらに転じて「相手が不快だと感じたばかりに自分が加害者にされてしまった」という論理を言外に構成し、事実上、攻撃性を追認ないし無垢化するために作り替え、流用・転用できてしまうからだ。

 「差別」についても似た論理を聞く。「差別とは相手がそれを差別だと受け止めることだ」。

 で、えてしてこうした論理は次に、当事者にその「意識」や「認識」を問おうとする。

 しかし、不快や疑問を表明することがいかに難しいか。

 問題の問題性に気づくことができない日常に当事者がいかに放置され孤立していることか。
 むしろ、その意識や認識に対する問いがどれほど「このくらいは普通の、よくあることではないのか」との倍音を響かせていることか。

 こうした社会的諸力の複合に強制された沈黙をもってどれだけ現状が追認されていることか。
 「受け止め方」が論題にされることで、どれだけ事態や行動の事実が不問に付されてしまっていることか。
 逆に、そもそも可視化しづらい内面が問い質されることで、なぜそれを表現しないのだという責めたてにどれだけ当事者がさらされてしまうことか。
 問題の問題性に気づき、それを表現するために、当事者が学習したり集合したりし始めたら、それがどれだけ「偏向」だというまなざしにさらされてしまうことか。
 そのまなざしはどれほど攻撃性を冤罪の論理で覆い隠す準備をしていることか。

 つまり、これがどれほど「再蹂躙」でありうることか。

 --反省能力に欠如した「じゃあ当事者に気持ちを聞いてみよう」式の「意識調査」の問題点は、安易な「アンケート」にしばしば見られる手順や技術の誤りにばかりあるのではない。そもそもの問題の立て方、「意識」なるものに対する態度、感受性、理論的構えが素朴で幼稚すぎることにある。

「災害ユートピア」と「パニック」:覚え書き

蜘蛛の糸:大震災から 身振り手振り

 「災害ユートピア」言説についていくつか注意すべきことが生じているように思う。以下「大筋では」「基本的には」の限定つき。

 

 1.

 レベッカ=ソルニットの書『災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体がたち上がるのか』(亜紀書房、2010年12月刊)の原著名は  A Paradise Built in Hell: The Extraordinary Communities That Arise in Disaster 。

 つまり、厳しい「地獄」状況、という前提の上での話である。助け合わなければ生き延びることができない。言い換えると、災害や大事故など「大惨事」に巻き込まれた当の人々の行動についての議論。

 災害直後には社会の「みんな」が団結する、という説だと信じている人をときに見かける。そうではないだろう(1)。

 惨事の直後には政治家などが競うように救済や支援を述べ立てる、という説だと信じている人も見かける。そういう話でもないだろう。

 

 2.

 ショッキングな出来事があると、人々が利己的行動をとって我先にと争いあい、通常の思考能力や理性を失い、同質の感情に支配された群衆となって、デマや流言のなすがままとなり、その一部が暴徒と化して略奪や暴力に走り(2)、アジテータがそれをさらに焚きつけ、行動が政治化し、カルト集団が暴動・内乱・革命をおこしかねない・・・といわんばかりの通説(3)があった。ソルニットの議論はそれへの批判・反省、という文脈にあるように思う。

 もっというと、こうした語義でのパニック」が起こると信じた公権力がこれを根拠に弾圧(4)や言論統制(5)や誘導(6)に乗り出すという「エリートパニックへの批判、である。つまり、惨事にまきこまれた人々は権力者が言い立てたり恐れたりするほど簡単に「パニック」に陥ったりしない(7)、それよりもエリートパニックがもたらす厄災のほうがずっと大きい、というところにソルニットの論点がある。

 現代日本語の日常的カタカナ語としてしばしば用いられる「パニック」とは指示対象や意味が異なる点(8)、注意すべきだろう。

 

 3.

 ソルニットの趣旨なり文脈を踏まえていうなら、まず注視すべきはエリートパニック、あるいは災害の政治的利用であろう。

 エリートたちにとって「パニック」はしばしば、惨事の渦中に置かれた人々が自分の経験を言い表そうとしてその語を用いがちになる場合とは異なって、自身の権力に対する脅威、政治的危機を意味している。困っている人々を守ること以上に、人々から自分を守るための方策を考えがちになる。

 そのために繰り出される古典的な方策は、内外に「共通の敵」をこしらえることだ。あるいは、人々の注意を反対や批判の出しづらい救済・支援・防災に注ぎこませておいて、それと抱き合わせで、あるいはその陰に隠して、他の政治的課題を達成しようとすることだ。

 必要な検討や措置が論敵の言い分を認めることになるからという理由でなされなかったり、必要かつ重要な情報を人々が混乱するからという理由で公開しなかったりすると、社会不安を強化してしまい、それが統制を正当化する、といったスパイラルも生じうるだろう。

 

 4.

 そのうえでソルニット批判が必要だと私は思う。

 ソルニットは、第一に、大惨事下で見られる人々の助け合い(愛他行動)について、「日常の生活組織」とそれとの関連をほとんど見ていない。日本で言うなら町内会とか部落とか子供会とか学区とか商工会とか農業生産組織とかである(10)。もちろん、家族、近隣、親類も考えるべきだろう。それを見ない議論は、非常に普遍的だが、そのぶん地域特性や歴史性に欠ける話になっている。

 第二に、ソルニットの議論においては、だから人々の組織の内部にも注意が及んでおらず、特にドメスティックな領域での問題点をほとんど見ていない。たとえば避難所における性差やジェンダー、高齢者や障害者や病人、子どもの問題などは、「人々」の「助け合い」の中におさめられてしまい、そこに発生するかもしれないストレスやあつれき、力や格差、権力や暴力、差別や排除、温情主義的保護の論理などについて、ほぼ論及できていないのではないか。

 根本的には、「日常的な疎外状況によって抑圧されていた人間の本質的な愛他的傾向が非日常的な状況で発揮される」といった素朴な図式がソルニットには散見されることについて、注意しなければならないのだと思う。

 要するに、日常の生活組織の無力・消失を前提とすることなく、かといってそれをロマン化するのでもない視点(10)が必要だ、ということではないだろうか。

 この点、私たちはソルニットを越える経験をすでにし、認識を得てきている、と言いうるかも知れない。

 

 5.

 このようにソルニットの議論は、抽象的でロマンティックな側面を持っている。その点で批判が必要だ。

 しかし、だからといってソルニットの趣旨をふまえることなく、古色蒼然たる「パニック」論に舞い戻ると、そこにはソルニットが乗り越えようとした危険、つまり統制を正当化する論理に餌を与える危険が、顔を出すだろう。 

 たぶん読み飛ばしがあるだろうが、注意したい点を急ぎ。

 

注:

(1)たとえば社会全体としての犯罪が減少するといった指摘ではないし、被害者を食い物にする犯罪者など存在しないと述べているわけでもないだろう。

(2)永井豪の『デビルマン』とか『バイオレンスジャック』のようなイメージを想起すればよいのかもしれない。

(3)古くはル=ボンの群衆論に発しているが、アメリカの社会学ではH=ブルーマーらの「集合行動論」の一部にこうした通説を見ることができる。

(4)1906年のサンフランシスコ大震災では、人々がパニックに陥って暴動をおこすに違いないと信じた当局が大量の武装兵を投入した。危険な町から人々を救い出すのではなく、危険な人々から町を守るべく、市長は軍隊に「射殺」を含む権限を与えた。兵たちは酒場のアルコール類を破壊してまわり、怪しい人物を見つけては銃で殴りつけた、等々、というのがソルニットの報告である。

 エリートたちがこうした「信念」につきまとわれるのは、常識的推論の結果とかハリウッドお得意のパニック映画の影響によるのではなく、日常的な差別や抑圧や貧困の問題があることを承知しているからであろう。

(5)2011年、福島における原子力発電所の事故にともなって、放射性物質の拡散を予測するSPEEDIのデータを即座に公表しなかったことについて、理由を問われた担当大臣は「パニックを懸念した」と述べた。こうしてデータが秘匿され、事実が隠蔽された結果、被害は拡大した。エリートパニックの典型例として記録されるべきであろう。

(6)関東大震災下における朝鮮人共産党員に関するデマは、自然発生的なものというよりも、おそらく不満と敵意をそこへと誘導しようとするプロパガンダであった。少なくとも、そのデマは、差別や貧困による憤懣の蓄積、という日常感覚を触媒として利用しているだろう。

 東日本大震災時、メディアには「秩序正しい日本人」を礼賛する記事が見られた。それが事実の報道ないし規範の確認だったとしても、危険なのは、その言い方が裏返しになって「海外では暴動や略奪が当たり前なのだ」「したがって外国人は危険だ」のような推論を呼び起こしかねないことである。今日、テレビの娯楽番組はその頃よりもいっそう「日本人」礼賛の傾向を強めているであろう。

 このように、デマや流言が発生する危険については、混乱時における「人々」の社会心理学的な一般法則としてのみならず、固有の政治状況・社会状況とも照らし合わせ、その人為性や政治性について考慮すべきなのだと思う。

(7)この点、日本におけるエポックとなったのが阪神淡路大震災であった。こうした語義での「パニック」が起こらず、むしろ愛他行動がたくさん見られたことが、現地から脱出してきたNHKアナウンサーによっても、印象深く報告されていた。東日本大震災に関しても、大津波に襲われた某地域に詳しい或る社会学者は「パニックなんて起こらない、むしろみんな助けに行ってやられた」のように説明した。

(8)「いやもう現場はパニックでしたよ」というように言う場合、「恐怖心や不安感でいっぱい」「急場でどうしていいやらわからず」「慌てふためき、混乱状態」といった経験を表現しようとしているであろう。大変なことが発生している、その重大さを強調しようとして「パニック」が用いられがちなのである。

 ソルニットが大略「パニックがそうそう起こるわけではない」と述べていることが、もとの文脈と意味を離れて紹介されたら、ことの深刻さを知らない無認識として受け止められ、かえって「いやパニックは起こるのだ」という反発を招いてしまうだろう。

 加えて「パニック」は「パニック障害」のように、集合状況(群衆とか暴徒)の特定の現象ではなく、むしろ個人的現象について言われるようになってきているであろう。日常語の「パニクる」といった表現はもっと軽い個人的混乱や戸惑いを指すだろう。

 こうした「パニック」の日常的使用が、ひるがえって不安感を増長させてしまわないかどうか、また、それが管理統制を強化しようとするエリートの餌食になってしまわないかどうか、注意するべきであるだろう。

(9)H=ブルーマーにおいても、日常的な組織や習慣がすべて崩壊してしまう、というのが集合行動論の前提であった。この前提が理論的陥没点を生じさせているだろう。

(10)たとえば「ムラ」は、原子力ムラなどというような言葉が不用意に使われれば「悪魔化」されるだろうし、その一方で、東北地方のムラではお茶の時間になるとみんなで仲良く集まる習慣があるらしい、といった「ロマンティックな農村・農業表象」と重なる空想を生む場合がある。

 

4月19日版、同日~20日一部改訂

組織的対応と個人的対応

身振り手振り
1.「授業実践記録」

 業務で「授業実践記録」を作成した。毎期、毎授業についておこなうことになっているのだが、これは全学教育分。

 先だって授業の終わりには、学生による授業評価といって、アンケートで「授業は系統的に整理されていたか」「説明はわかりやすかったか」「総合的にみて受けて良かったか」のように問うてあった。

 その結果を見、私が作ってあった授業計画(シラバス)の「授業のねらい」と照らし合わせ、授業を自己評価し、反省点を探り、改善案を考える。

 結果はウェブで公開されるので、教員同士は互いにこれを見て、相互啓発をはかる、というもの。閲覧したうえでコメントを書くような設定もできる。「成功例として」自薦するという選択肢もある。

 作りながら、これで学生さんと向き合うことになるのかなあ、といつも思う。

 

2.「型どおりですませておこう」になってしまう

 組織的な対応が、個人的対応の余地を狭めてしまう、ということが起こりうるのではないか。

 事務量が増えてしまうという問題ばかりではない。

 私の場合、まぁ、時間が大幅に奪われるほど「くそまじめ」にとりくんではいないのだが、そういうふうに、あまり有意義感を持てないまま、「適当に対応している人」が多いのではないか、と想像する。

 実際、書いてみたら有益なコメントが得られて役立った、といったことは起こったことがない。自分も他の先生の記録を見たことはないし、見たとしても「コメント」なんかおこがましくて書けっこない。互いに授業を見学しあうほど余裕もない(そんなことはこれを担当している事務局も文部科学省も承知しているはずだ)。まぁ、書くときに「自己点検」はできるが、その程度ではないだろうか。

 そんなことを繰り返すうち、「まぁ適当にやっておこう」になっている自分がこわい。「声に耳を傾ける姿勢」を自分がどんどん失っているのではないか、という自覚があるのだ。

 

3.授業評価のアンケート が「憂鬱」

 正直なところ、そもそも授業評価アンケートの結果を「見るのが憂鬱」。

 第一に、もともと「100%」がありえないだろう。「わかりやすかった」という人があると思えば、「やさしすぎる、もっと高度に」と書き込む人もある。これにいったいどういう改善案がありうるだろう。悪い結果が多くて憂鬱、というのではなく、どれほど良い結果が出ていようと、機械的に改善案を記入するよう促される。

 今回の私の場合、ほとんどすべての項目で肯定的評価の合計が9割を越えるのだが、ほとんど「無限の努力」が求められている気分になる。

 さりとて、この数字はどこかがおかしい、と思う。そこまで立派な授業をしている自覚がない。どうしてこうなるのか。「実践記録」は、自分がおこなった「工夫」と照らし合わせて結果を自己評価する形式になっているのだが、多少の「工夫」で結果がそれほど大きく左右されるとは思えない。「具体的な教材を用いたところ反応が良かった」といった程度の分析って、そんな単純なわけじゃないだろうといつも思う。が、それ以上に詳しいこととなると、要するによくわからない。「まぁ型どおりに書いておくことにしよう」になる。

 第二に、「全く通じてない」ケースが必ずあり、そういう人に限って(?)自由記述で遠慮なく(?)「改善すべき点」を指摘してくる。

 私は、初心者に辞書を読んで聞かせるような話をしても退屈だろうから、一所懸命に具体的な話題をもりこみ、時には良質なドキュメンタリー番組の録画を視聴したり、実物資料(たとえば牛乳のパッケージ)を用いて教室で観察、といったことをしているのに、「抽象的な話が多いのでわかりづらい」っていう人があるのである。これは、いままで、根絶できたためしがない。

 「ここまでやってるのに」と、これを無視する習慣が自分の身についてきている。

 なぜそんなに「伝わらない」ケースがあるのか。誰か答えを知っている人はいるのだろうか? 答えと称する論評の多くは「最近の学生はリテラシーが低下して・・・」式の十把一絡げの若者論だ。私にはとうてい納得がゆかない。私が学生だったころの自分が書いたレポートよりよっぽどマシなものを書いてくる学生の存在が説明できない。それに、リテラシーがそんなに低下しているのなら、そんな程度の低い学生にこんな「高度な」話をしたってそもそもムダである話になる。

 

4.大人数の講義の憂鬱 

 そのうえ、受講生が100人を越えるような大人数授業になると、「低モラル受講」がおそらく数割はいる。

 おそらく世の常として、学生の裏サイトとか種々の先輩後輩関係の中で「こうしておけば浮く」というマニュアルができあがっている。授業評価が高かった翌年は、必ず「内職組」「代返組」も増える。それで昨年のマニュアル通りにやったのだろう、課したはずがない「宿題」を提出してくる学生さえある。レポートなども厳密に見たらきっと盗作がある程度あるにちがいない(ネット丸写しくらいは気づきやすいが、昨年の先輩のをまねされたらわかりづらい)。

 しかし、これについての対策は必ずイタチごっことなる。「これ以上できない、もう知らない、ほっとけ、熱心な受講生にだけ対応すりゃいいんだ」という態度が私の身についている。

 ところが、受講生が100人超ということになると、1%程度の確率でしか存在しないような事情をかかえて困っている学生だって一人くらい含まれていても不思議はないことになる。実際、たまに相談があって、対応する。そのとき、「それならそうと言ってくれれば」よいのだが、しかし、もし私が上のような低モラル受講の存在にいらだっていそうな雰囲気だったら、なかなか言い出しづらいというものだろう。

 

5.シラバスの厳密化 

 「シラバス」も厳密化されることになった。

 従来は、授業の趣旨、学生の達成目標、授業の進度や内容の計画、テキストや参考文献、連絡方法、オフィスアワーなどなどを書き込んでいた。

 それが次期から、授業計画は、15回分、一回一回について「第1回なになに」というように分けて書かねばならなくなった。そのうえ、予習復習の課題なども指定。

 学生による授業評価アンケートの項目には、「授業はシラバスに沿っておこなわれたか」という質問もあるので、これはけっこう拘束力が強いものとなる。

  しかし、こうなると、授業の顔ぶれや学生の応答などを見て内容や進度を考えながら進める、といったことはできにくくなる。

 シラバスを書くのはだいたい冬。最大、一年後の授業計画を作ることになる。一年後の自分の生活がそもそも予測できない(そう、一年とは、たとえば出産は予測できない長さだ。いまそんなつもりはないけど)。一年後の社会情勢も予測できない。だいたい自動車教習所じゃあるまいに大学の授業をなんだと思ってるんだ・・・と同僚の先生ともぶつくさ愚痴を言い合う。

 「ま、仰せの通り書いておくけど」と、これまたテキトーに済ませようとしている自分がいる。

 

6.質問期間 

 授業期間が終わり、成績の登録が済むと、学生から成績評価について質問してよい期間があり、教員はそれに答えなければならない。私もそういう制度があることには賛成だ。しかし、実態は、「なぜ落第なのか」という問い合わせに応じるというものばかり。それも、「惜しいところで」というケースからの問い合わせはあまりなく、出席は足りないわレポートはいい加減だわという、「いくらなんでも」級のものがほとんど。

 はなから門前払いしたくなっている自分がいる。それに気づいて、最近やっと、「なにか事情がありましたか?」と一言足すようになった。

 

 7.「なぜ察知できなかった」のおきまり現場に自分がなっている

 つまり、「組織」としては「学生配慮の授業やカリキュラム」という理屈なのだろうけれども、それが一人一人の教師のひとつひとつの授業の具体では「形式化」を経由した「形骸化」をうんで、いわゆる「きめこまかな対応」をおこなうための精神的・時間的ゆとり、そういう態度なり姿勢を、奪ってしまっているのではないか。

  教育現場で何か問題が起こると、世間は決まって「なぜ事前に問題を察知できなかったのか」と問う。目の前で、いつも顔を合わせていただろうに、と。

 顔を合わせてはいない。よほどの少人数授業(30人くらい)とか、大学院の授業でなければ、私が向かい合っているのは、ウェブ入力の画面と不特定多数だ。気にかかるメールとか書き込みがあっても、ちょっと気にかかる程度では、その人の顔は浮かばない。本当に困っているのかもしれないのだが、ずる休みと本当にやむをえない欠席とが見分けられないように、見分けは難しく、相手が不特定多数になればなるほど、疑心暗鬼になってしまい、「面倒」感ばかりが強まる。

 いま、もしもなにか起こったとしても、きっと、「どうして気づかなかった」と問われるおきまりの教育現場になっているのだろうな、という不安がある。そしてもし万が一、何かが起こったら、ますます組織的対応が求められて、悪循環が強まってしまうのではないだろうか。

二枚舌

身振り手振り

 竹内真澄『諭吉の愉快と漱石の憂鬱』より
 [以下引用]…公的社会政策は不要で、救貧活動は家族内にて行わせるべしという……
 諭吉のスタンスは、公的な救貧政策を廃止する立場である。そしてチャリティを基本にせよと論じたうえで、チャリティさえごく限定化し、最後は家族に一切のケアを背負わせる……一方では「男女の違いは性器のみ」と言い切るし、女性にも仕事をもつことを勧めて職業選択論を展開する。そこで諭吉は近代的男女平等論者だというような誤読が発生する……
 しかし、この評価は諭吉の近代社会論と十分噛み合っていない。……家族とはすなわち母、妻、娘である。大方の弱者への公的救済が存在せずかつまたチャリティも狭められるならば、家族が、結局は大方の女性が介護やケアを引き受けざるを得なくなる。そうなることを十分計算した上で諭吉は口先で平等論を展開できるわけである。
 女性だって男性と同様分け隔てなく自由を行使できるといいながら、それを行使できないようにしておくところに、諭吉の二枚舌の男女平等論が成立していたと言うべきであろう。[以上引用]
 ーー諭吉評価の当否について私は判断する資格がない。しかし、現代日本の思想像(日常的推論の構造とかイデオロギー状況)のひな型なり原像としての思想史という観点からすれば(それが著者の意図でもあろうか)今日の「男女共同」とか「一億総活躍」が「二枚舌」にとどまるかどうかにかかって重要な論点が取り出されているのではないか、と思う。むろん、問題は介護やケアだけではなく子育てや教育も、であり、貧困問題と裏返しの労働問題も、だろう。

広告を非表示にする

聞きたくない声③④: 喫煙肯定説

タバコ法度に銭法度:私の禁煙体験記

*過去記事の引っ越しです

聞きたくない声 ③ 喫煙の積極的な正当化

 私は、喫煙正当化論もまた、あまり読みたいとは思わない。

 正当化論には積極的と消極的との二種がある。

 積極的な喫煙正当化論は、喫煙の意義や一利を主張するものである。
 私は、少なくとも喫煙者にとってタバコは一利をもたらしていると思う。だが、私はそれを積極的に口にするつもりにはなれない。タバコから離脱する理由を失ってしまうからである。もしも私が嫌煙論者に対抗して喫煙の意義や一利を主張しておきながら、のちになってやっぱりやめた、となると、それは論理破綻の自己証明となってしまうことだろう。

 もちろん、そのように言って私を責める人はいないかもしれない。しかし、意義や一利を感じながら、では一生のあいだタバコを続けるかといえばそうでもなく、むしろいつか卒業したいと考える、この矛盾こそ喫煙の特質なのである。

 だから、喫煙肯定説をつくりあげようとする積極的な喫煙者には、かなり込み入った条件が課せられることとなる。
 第一に、現在の喫煙の理由は主張しなければならない。
 第二に、それは積極的な理由でなくてはならない。つまり、無知とか意志薄弱による惰性といった負のラベルを回避できなければならない。
 第三に、それでいて、「いつか」タバコをやめるかもしれないという保留を残さなければならない。それも「すぐに」とか「まもなく」ではなく、特定しない「いつか」に、である。
 第四に、タバコをやめることについて、論理破綻とか転向といったラベルを、回避できなければならない。

 この難しい条件を満たす論は娯楽説もしくは嗜好品説であろう。

 娯楽や嗜好品には、気分一新、ストレス解消などの積極的な効果がある。いわば幸福追求のひとつだ。それがたとえ愚行と見えても個人にとって積極的な意義を持つ楽しみや好みに口を出す権利は誰も持つまい(他人に迷惑や損害をもたらさないかぎり)。
 しかも、趣味ならば、理由なく変更したりやめたりすることがありうる。タバコをやめたとしても、他の楽しみを見つけたのだと言えばよい。娯楽や嗜好品にはつきものの論理だ。
 --喫煙を承認してもらうための、これは有利な論理であると見える。

 しかし、この説を採用するなら、喫煙者は、最も強力と思われる反論を招き寄せてしまいかねないリスクを背負うことになる。
 娯楽説・嗜好品説の戦略は、いわば公的議論からの撤退、もっと言えば私事化にほかならない。この説をゲームのサービスに採用するなら、帰ってくるレシーブはおそらくその私事化を逆手にとった「ならば職場では禁煙だ」といったものになるだろう。すなわち、公共空間での絶対的禁煙である。

 タバコが個人の娯楽なら、職場が休憩・休息時間以外にそれを公認するわけにはゆくまい。
 同様に、個人の趣味を公共空間で自由に展開してよいかどうか。これはたとえばゴルフの練習を公園で展開してよいかどうか、という問題と似ている。「いや、周囲に配慮はしている」と弁論しても、無駄であろう。配慮の十分な人と配慮の不十分な人がありうるが、それを識別すべきは世間である、と、喫煙さえなければ必要ない努力を一方的に世間に強いているからだ。さらに、十分な配慮をしたとしても、事故の危険性は消し去れまい。
 それどころか、分煙措置すら、とる必要がないであろう。個人の趣味や娯楽に無料の公的支援をおこなうのはおかしい(4)からである。喫煙所を設けるならJTが自前の努力でおこなうべきだし、あるいは自由な営業として喫茶店ならぬ喫煙店を設けるべきこととなる。

 娯楽説・嗜好品説で、このレシーブに返答することは難しかろう。正当化できるのはおそらく、自宅の個室、自宅の敷地内で周囲に迷惑が及ばない場所、などでの喫煙だけになるだろう。要するに私的な飲酒に近くなるだろう。
 こうしてラリーは、喫煙者が孤独な喫煙を選ぶことによって終わる。なお、JTの姿勢は、先にみたマナー遵守の喫煙者モデルと、この個人的娯楽説から、成り立っていると言える。

 さて、私にとり、この説を採用することはできない。
 この説を持ち出すなら私には「愛煙家」というラベルが貼られることになろう。だが、それほどタバコを愛しているわけではないのである。
 それどころか「嗜好」と呼ぶのもはばかられる思いがする。確かに分類上は嗜好品なのだろうが、特別に好きだから始めたわけでも好きだから続けているわけでもない。酒好きの人が酒について知識を蓄えてゆくような探究をおこなうわけでもなければ、味にうるさくなるなど好みが深まってゆくわけでもない。私は、ただの消極的な喫煙者なのである。
 そんな私がこの説を採用するとすれば、それは方便としての娯楽・嗜好説である。が、心にない方便を用いてまで喫煙を正当化しても、この説では得るものがない。読む気が進まないのは、そのためだろう。


上へ

 

聞きたくない声 ④ 喫煙の消極的な正当化

 さて、消極的な喫煙正当化説の極限は、自殺説である。「有害なのはわかっている、自分で死ぬのを選んでいるのだから、ほっといてくれ」。

 私にはそう言いたい気持ちがある。他者がそう言っているのにも共感できる。しかしその共感は、私の自殺願望をよく表現しているといった事情に由来するのではなく、むしろ、これが相手にとってレシーブが一番むつかしいサービスであることに由来するのではないだろうか、と思う。

 レシーブの難しさは、第一に、さきの文言のなかに矛盾する二つの命題が含まれていることに由来する。すなわち、自殺するぞという宣言と、救済するなという要請と。

 レシーバーが、自殺宣言を重く見れば放置しづらいだろうが、しかし、ほっといてくれという要請を重く見れば手が下しにくい。救済や同情の手を伸ばせばおせっかいとなり、なにもしないなら危機的状況を放置する冷淡となる。

 つまり、この説は一種の二重拘束(5)であり、相手を市民的無関心のマナーと救援のモラルとの葛藤状態(6)に追い込むことができ、また、いずれの反応をとっても論難することができる。つまり喫煙者が攻勢に出やすいのである。

 レシーブの難しさは、第二に、ここでなされている自己提示戦略に由来する。
 喫煙者が本当にほうっておいてほしいのなら、これを主張する必要はないし、人前でタバコを吸う必要もないだろう。極論、自分が喫煙者であることを周囲にまったく気取られないことが最善であるにちがいない。それにもかかわらず自己の喫煙を衆目のもとにさらすのは、苦しむ喫煙者として自己を提示するため(7)である。そうすれば、喫煙を批判する者があったとき、受苦に鞭打つ冷淡な嫌煙主義者というラベルを動員することができる。

 喫煙の動機として心の傷をあげるトラウマ説や種々の絶望的な境遇や悲劇をあげる不幸な人生説も、この範疇内だろう。「心因的なものがあるのさ」。それらが心理学的・精神分析学的に見て本当に喫煙の原因になるかどうか、それはここでは問わない。そうではなく、この説を相互行為論的に吟味すれば、先の自殺説と共通する性格を持っていることがわかる。つまり、苦しむ喫煙者から、その救いとなっているタバコをとりあげた場合、タバコ批判者たちは、責任をとることができるのか。
 --そのように喫煙批判に対して先手を打つことができるわけだ。タバコ談義において喫煙者たちがこの説をとる場合が多いのは、単にそれが心理的事実であるからではなく、このようにしてゲームのアドバンテージを取得できるからであろう。

 この説の難点は、第一に、相手の困惑を必要とする、という点である。
 つまり、やりこめられたくないタバコ批判者にとっての最善のレシーブは、サービスに含まれる「ほうっておいてくれ」を字義通りに受け止めて、「そう、じゃ、ご自由に」と答えることである(8)。そのかわり、表明された自殺願望やトラウマや不幸には、かかわらない。これにより、喫煙者は悲劇の主人公になることとひきかえに容認を得ることができ、非喫煙者はおせっかいであるか冷淡であるかの二者択一を避けることができる。ラリーはいったんこれで終結することになるだろう。

 難点の第二は、タバコからの離脱機会をほとんど永久に喪失する、ということである。
 そんなにつらい人生であるがゆえにタバコをどうしても必要とする、というのであれば、よほどの幸せがやってこない限り、タバコをやめることはできないだろう。「なにかきっかけがあれば……」がいつまでたっても解決できないのは、心理学的な問題というよりも、この論理のゆきづまりゆえのことなのである。

 さて、私の場合、これは現状にほかならない。


上へ

 

自己完結の物語

 書いてきて気づいたのだが、以上の喫煙談義のあれこれについて、私は「ああ言えば、こう言われるだろう」「こう言われたら、ああ言い返すだろう」といったふうに、自分のなかで議論を展開させている。言い換えれば、以上のような「タバコの話」のほとんどが、実は私の内面における議論状況のなかですでにラリーを終え、決着がついて、お決まりのかたちで自己完結しているのである。

 その帰着点は、全面降伏や論理破綻といった負のラベルか、そうでなければ、孤独な喫煙であった。それが私の現状である。私のなかで構造化されている禁煙物語はいわば膠着状況にあって、喫煙を続ける限り私を孤独な喫煙という塹壕に閉じこめているわけである。

 上に見た類型のタバコの話を読む気がしないのは、そのふれこみなりキャッチコピーなどによって、私のなかのこうした談義のラリーにプレイの号令がかかり、すぐさまいつもの結論に陥ってしまうからであるにちがいない。


上へ

 

(4) この観点から裏返してみれば、駅や職場における分煙の措置は、生理学的習慣性の力や、かつては容認されていたという社会的慣習の力などに、現在の個人的嗜好としての喫煙の責任を認めることが大前提となっていることがわかる。
 もっとも、娯楽や嗜好のなかにも、いわば社会的序列がある。たとえばお茶やコーヒーの類は、ほっとするとか目が覚めるなどの生理学的効果や社会的慣習にもとづく社交的機能などが肯定的に認められている例である。それゆえ、来客に備えて職場の公的経費で購入することができる場合があるし、そこまでいかなくても職場に給茶器や喫茶室が備えられていることも多く、職務遂行中に飲んでいても咎められたりしないであろう。飲酒も、忘年会や歓送迎会など非日常の折りには、それに近い地位につく(むしろツキアイのため飲まねばならぬことになって問題となる)。これに対して、ケーキ部屋を設けてくれる職場はあまりあるまい。私にはそれがなければ仕事にならない、と、どんなに叫ぼうと無駄であろう。喫煙娯楽説・嗜好品説は、喫煙の前者に近い位置から後者に近い位置への移行(地位低下?)であるとも考えられる。
 社会的慣習と私事とのあいだにある境界線が、いつなんどきどのようにして引き直されたのか、と、その過程がなしくずし的であったことについて異議を申し立てるなら、それは禁煙ファシズム批判の一類型となろう。→本文に戻る 

(5) 二重拘束とは、「自主的になれ」とか「私の命令に従うな」などのように、両立しない二つのメッセージ(自主的であることと命令に服従すること)について、その矛盾を指摘することを許さずに応答するよう求めることを言う。→本文に戻る

(6) エレベーターの中では互いの様子を注視したりせずに階数ボタンに視線を集中するといった行動が公衆マナーとなる。これが市民的無関心である。しかし、そのなかで誰かが脂汗を流しているのに気づいたとしたら、なにか声をかけるべきではないかという救援のモラルが呼び覚まされ始める。ただし、その人物がもし、まもなく落ち着いてハンカチで汗をぬぐったりネクタイを緩めたりし始め、あるいは化粧室にでも寄るのであろう、予定外の最寄り階でストップしようとしたりするなど、自分でなんとかしようとしているなら、その自律性を尊重して手助けせぬのが一般的なマナーとなる。へたに手助けするのは、その自律性を否定し、自分を保護者化することになるからである。注意したいが、昔はあった互いの気遣いが失われている、のではない。そうではなく、手助けしないという相互顧慮のマナーが存しているのである。 しかし、もしその人物が、荒い呼吸をし始めるとかお腹を抱え込み始めるなど、エレベーター内で遵守が求められる行動の一般ルール(「静かに直立すること」)を守りきれなくなった場合には、たとえ「たすけてくれ」という言葉がなくとも、これは救難信号と同義に受け止めなければならない、ということになるだろう。つまり、「どうかなさいましたか」のような言葉が求められることになる。
 さて本題にもどり、自殺を示唆しながらの喫煙は、市民的無関心の氷をやぶって自らの苦痛について関心を引いておきながら、しかも手を出すことを禁じているわけである。→本文に戻る

(7) 「お前におれの気持ちがわかってたまるか」という言葉について考えてみよう。この文言を字義通りにとれば、それは自明であろう。以心伝心がいつでも容易にできるのであれば、あらゆるコミュニケーション論は必要ないことになるし、心理学や言語学や哲学すら、いや文字さえ不必要で、言語そのものが不要になるだろう。 しかし、「その通りだね、じゃあ何を話しても無駄だから、これまでにしよう」という、論理的にはスジが通るかもしれない返答が、その言葉に対する応答として適切なのかと言えば、たいていの人が首をかしげてしまうにちがいない。というのも、字義通りに「わかってたまるか」ならば、もともと沈黙しているのがいちばんふさわしかったはずなのに、そうせず、話をしたということは、字義とは逆に、「お前のその無関心に苛立っている」「そう言いたくなるほどのオレの心情を理解するよう努めてくれ」、要するに「もうすこし話を聞いてくれ」という意味に解することができる。 これと同様に、「もう死ぬ、ほっといてくれ」が、真に心理学的事実であり本当の意図であるならば、その発話は必要ないだろう。つまりこの文言は、「まだ死ぬつもりはない、助けてくれ」、もっと言えば、「私はいま手のかかる状況にあるが、その手間を惜しまずにかかわってくれるか」と相手を試しているわけである。→本文に戻る

(8) 英語圏で一頃言われた応答、It's an another nail to your coffin. は、この一例だろう。→本文に戻る


上へ