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82段

社会学者・徳川直人の非専門・半専門の不ぞろいエッセイと日常ジャーナル

感情の衛生: 

おっと・とっと 子育て

 あるTEDトークに大いに共感。

www.ted.com

 

 脚を怪我したとき「気にするな」とは誰も言わない。手当が必要だと考える。なのに、それが「心」や「感情」の問題になると? 

 それも、専門家のお世話になる以前に、自分たちでも日常生活の中でできる「衛生」の技法がある。

 

 それはかつて、私自身が、震災後の心のケアの課題として、論じたことそのものだった。

 

 たとえ2分であっても悪夢体験の「反芻」から解放されること。まずは「自尊心」のケアに努めること。そうすることで、私たちは、立ち直り、成長してゆくことができる。

 

 マーはただまじめで敏感。それでマイナス体験が多い。言葉の力がすごいから、それを理屈づけてしまう。--だから、うんと「心のケア」「感情の衛生」が必要なのだ。

 

 思い当たるフシが山ほどある。誰も教えてはくれなかったけれど。

とはいうものの:個性の課題

おっと・とっと 子育て

 11月の末、「内的自己処罰」という文を書いた。マーの不登校について、学校やクラスに作動している根本的な論理の問題ではないか、マーはそれに正常に反応しているだけではないか、転校を考えることにした、という内容だった。

 ここではいけない、場を変えよう、と思ったところまでは良かったのかもしれない。が、問題は残っている。

 --マーはなぜこうも「正常に」状況に反応してしまうのか。学校や学級に「やりすぎ」や「矛盾」があったとしても、なぜマーはそれを敏感に察知する(それをあぶりだしてしまうほどに)「炭鉱のカナリア」でありえたのか。

 

 いままで書いたもののなかから拾うと、

 ・話す力、論理の力が、飛び抜けている、言い換えると能力がアンバランス

 ・真正直、逆に言うと「まぁほどほどに」がなく杓子定規

 ・他の子との関係に敏感で、逆に言うと対人関係が苦手

 といった特徴が思い当たる。

 

 マーはその場にはたらいている根本的な論理や命題を読み取ってくる。それが、誰かがそう言ったものか、誰もそうは言わないものであるかは、さしあたり関係ない。ともあれ、そこにある命令文や禁止文を、マーは読み取る。

 が、その場の論理や命題は一貫しているわけでもない。現場には「とはいうものの、まぁほどほどに」とか「勝ち負けはつけるけどあまり気にしないで」といったブレーキが「暗黙に」かかっている。しかし、マーにその「暗黙の」ブレーキは聞こえない。説明してみても、気休めのウソに見える。

 その矛盾をマーは正面から受け止めてしまう。

 言ってみれば、人一倍まじめな子、こどもだましが効かない子、なのだ。

 

 車で走っていて、制限時速50キロの意味がわかると、おとうさんがなぜ55キロで走っているのか、わからない。このくらいならだんだん受け入れられるようになってきたのか、「おとうさん、へたくそ」で納得したのか、ともあれ時間がかかった。

 

 幼稚園時代の運動会、「競争」だというのに「みんなに金メダル」、に、騙されなかった。最近になって言うのだが「なぜ銀や銅じゃないの」。

 

 小学校に入って、授業。誰かの作文が良い答案として読み上げられる。「これは良い答案を書く競争なのだ」と先生が言うわけではないが、その論理がマーのなかで作動し始める。それで、良いことを書かなければいけない、という気持ちになる。が、できない。作文は苦手。というか、「おともだちっていいね」のような、大人の求める道徳とか歯の浮くような言葉(要するにキレイゴトの理屈)が書けない。で、「マーだけできない」になる。

 学級で「やさしさをひろめよう」と先生が言い、校長先生の部屋に「すてきで賞」の投書用紙があれば、それがストレートに入って、やさしい子であろうと努めようとする。「まぁ、できればね」はない。「やらねばならない」という命令になる。だが、できない。その場になると、躊躇したり考え込んでしまう。そのあいだに、他の子がさっさとやってしまう。それで「マーだけやさしくない、悪い子なんだ」という解釈が作動し始める。すると、その論理に支配されてしまう。

 図書館を利用しましょう、と言われる。マーはそれに素直に従おうとする。が、「自分に合った本」という情報がない。そのまま、難しい本でも何でも借りてきてしまう。親がつい「わーすごい」と言ってしまう。が、読めない本がある。で、「マーは頭が悪い子」になる。

 学芸会、きちんと「役」をこなさないといけない、という意識が強く働く。そう指導もされる。他の子から注意も受ける。「マーだけへたくそなんだよう」になる。それで「ひとりひとりが輝く」と言われても、マーには論理矛盾としか感じられない。

 

 これがもしマーの個性であるなら、環境を変えてみても、似た結果が発生するかもしれない。

 命令か禁止かの論理で白黒はっきりつけたがる。得意不得意がはっきりしていて、自分にもその白か黒かをあてはめてしまう。自分にも他人にも上手に距離をとることができずに、杓子定規になりがち。

 --そんな発達課題を抱えているのではないか。そう考えみると、むしろ不思議に得心も行く。マーの言ったことの意味がすとんと胸に落ちる気がする。「なぜこの子はこうなんだ」という苛立ちが、むしろすっとおさまる。

 マーの辛さがわかってくるとともに、教師にかかったストレスも大きかったろうと想像できてくる。

 

 考えてみれば、私だって6歳の四月に小学校にあがれてない。かなり大人になるまで対人関係がうまくこなせたこともない。小学校の授業はだいたい苦手だった。考えることとできることとのあいだにめちゃくちゃ隔たりがあった。

 妹も弟も小学校ではうまくいかなかった。あとで気づいたら、クラスに一人や二人、そういう子がいた。

 そしてこれはなにもマイナスのことじゃない。私はそれがなかったら社会学なんかやっていないだろう。「マーがもし社会学者だったら」を思いついたのは、偶然ではないのかもしれない。

 

 転校してはみたものの、ここがマーにとって良いはずだ、という性急な思い込みが私にあったとしたら、それは捨てないといけない。

 「ここにいていいんだよ」というメッセージをマーが聞き取るかどうか。その場にマーがどんな論理を察するか。まずはそれに従いつつ、あるいは、安心を感じてもらえるように、ゆっくり、じっくり構えるべきなのだろう。

 

 夫婦でカウンセラーさん、発達相談とも、話を続けてゆくことになった。

 小学校側が待つ姿勢でいてくれていること、いろいろな窓口になってくれていることが、ありがたい。

内的自己処罰: 不登校についてのまとめ

おっと・とっと 子育て
 1 マーの抗議

 マーが学校に行かず、私たちも「もう行かなくてよい」と言って、三週間目に入った。

 これまで何度か書いて、何がどうしてこうなったのか、考えてきた。

  8月9日 マー語録
  8月18日 フマンがあります:学校が嫌いないろいろな理由

  9月1日 全称命題の落とし穴
  9月16日 そりゃあいやにもなるわね:「やさしさ」の病理
  10月6日 「ほめる」の天地
  10月24日 ルールのルール
  11月28日 レッテル考

 学校やカウンセラーさんに説明するために書いたものを含めたら、これの何倍かになる。手探りのような作業だった。いまも「これが原因」と断言する「確信」まではない。
 子どもの行動には必ず理由がある。しかし他面、原因と結果が一対一対応するようなわけでもあるまい。状況とは複雑なもので、他の要因もあるかもしれない。そのことについては常に戒めが必要だろう。
 だが、だんだん焦点が合ってきている気がする。少なくとも最も大きな要因には行き着いたと思う。

 まぁぼちぼちと、と言いながら、学校に戻ってほしいという気持ちが「なかった」といえばウソになる。
 いや、先生が対応してくれているから、を理由に、最後はちょっと力尽くで連れて行ったりもした。慎重に対応しようとするあまり私たちがマーを家に閉じ込めてしまってもいけない、とも考えた。
 行けば平気な顔をしているので、なんとかなるだろうと思っていた。
 行かない日、先生がプリントなどを持ってきてくれたらマーもニコニコして出迎えるので、それにも少し期待していた。
 個別的な問題と、学校なり学級の根本的な問題とを、腑分けしかねていた。

 だが、マーの次の次の言葉は、私に根本的な反省をせまるものだった。
 「ゴキゲンなフリしたの」

 

 もういい、そこに行かせたらだめだ、と思うようになってきた。原因はいまの学校生活、クラスの状況、それも、友達との諍いといった個別的な問題ではなく、その根底に作動している論理そのものにある。

 マーは、その状況に対して、正常に反応している。

 すさまじい自己否定の言葉で、私たちに、その状況を論理的に説明している。

 私たちからの圧力の理不尽さを、訴えている。

 なのに、私たちがどこかでマーのことを信じていなかった。それが最も大きな問題なのだ。

 

 2 私なんて!

  マーが次のようなことをつぶやくようになったのは7月くらいから。最初は断片的だったが、秋口からは毎日のことになった。

 

 「本当は一年生じゃないよ。幼稚園からもう一度やらなきゃいけないんだ。本当はここにいちゃいけないんだよ」。

  「小学校についていけない。算数やったらおそいし、国語はお話がわからないし、工作やったらすぐ壊れるし、体育は跳び箱ができないし。劇やると注意される。ちっともほめられないよ」。

 「劇で番を待っているとき、じっと前を向いてないといけないのに、マー、動いちゃうんだよ。他の子が動くからつられちゃうんだ。そしたら隣の子が、動かないで、って言う。マーだけへたくそなんだ。できないよー」。

 「私、頭が悪いんだ。脳がどこか壊れていると思う。何にもできないんだ。算数は[よくできる子から]指を使っちゃだめって言われる。私なんか、だめな子なんだよ。三年生で落第して、大学から来なくていいって言われるよ」。
 --こういうときに、自分の頭をグーでなぐる。

 「私、ちっともやさしくない、いじわるな子なんだ。他の子に悪いことしているんだよ。先生も怒っていると思う。先生はマーがだめな子だと思っている。と、マーは思う」。

 「4月くらいは楽しかったんだよ。でも、5月くらいから不幸になったんだ」。

 「私なんて、キライ!」

 「うまれてこないほうが、よかったのかな・・・」

 

 誰かに何か言われたのか、テレビその他のメディアで見聞きした語彙や論理を借りているのか、自分で作り出したものなのか、それはわからない。言葉の力にみずから縛られているところもあろうと思う。
 しかし、これが、4月に小学校に入ったばかりの6歳児の言葉である。しかも、学校に行くほどにひどくなる。
 --これは「いのち」にかかわりかねない事態だ、もう行かせられない、と判断するのに、何か不十分はあるだろうか?

 

 そうかいそうかい、と聞いていると、十数分でおさまる。が、また、何かがフラッシュバックするのだろう、ふいに始まる。

 あまりのネガティブさに耐えかねて、「そうかな? できることもいっぱいあるじゃない?」のように否定してしまうと、かえって激高して「できないんだよ!」と反論してくる。「先生もほめてくれたでしょ?」と言うと「本当はほめてないよ! だめな子だと思われてるよ!」と大声で泣き叫び、手が付けられなくなる。

 

 延々と聞き続けて、やっとわかった。マーは「自分が置かれた状況について必死に説明しようとしている」のだ。

 状況がこう経験されるには、それなりの文脈があろう。なのに、私たちはえてして「なぜこの子は」と、状況の問題をマーの問題にすりかえていた。声を聞き届けていなかった。これはそれに対する抗議だ。

 

 3 負のスパイラル

 家で一所懸命になだめすかし、フォローして、やっと行く。しかし、学校で毎日のように屈辱体験をしてくる。またいやがりだす。フォローが効かなくなる。

 それで毎朝がいさかいになる。私たちは苛立ち、いや苛立ちを見せないようにと神経を使う。しかし、それを子どもは絶対に逃さずキャッチして、ますますぐずる。声が荒くなる日が出てくる。

 「落ち着かない子にはたいてい親の対応の問題が」といった評論(すでにインプットされている決まり文句)が頭に浮かんで、まるで自分たちがぴったりその構図にあてはめられてしまうような烙印を感じる。

 負のスパイラルが止まらなかった。

 

 11月ころから、私たちは、登校を促さないことにした。

  私たちも疲れたし、なによりマーは身体に来ている。

 「もう行かなくていい」

 

 家でいるようにすると、だんだん落ち着き、フラッシュバックも少なくなってきた。

 が、学校に行っていない、という後ろめたさがあるのだろう、外出しようとしない。
 朝、ご飯にお箸がのびない日も出てきた。ぐずった日にとがめられたことがあったのを気に病み、あるいは、学校に行かない自分は食べちゃいけないと感じるのだろうか。「学校に行かなくても食べていいんだよ」で食べた。

 登校しないようになって三週間たってなお、月曜の朝、私たちの顔色をうかがうように、尋ねてくる。「ねえ、今日、学校、どうするの?」

 「マーがつらいこと思い出すなら、行かなくていい」。「うん・・・」。「気にすることないぞ、学校がマーに合わなかっただけだ」。「それで、マーはいま、もっといい学校をさがしている準備中なんだ。さぼってるわけじゃないぞ。あとで一緒に宿題やろうな」。「はーい!」。

 

 不登校で救われている面と、学校に行っていないという事実が新たな負の烙印になっている危険とがある。毎日、ずっと、親と顔つきあわせているというのも、また別のしんどさがあろう。

 新しい行き先が必要だ。

 

 4 「ほめる」の天地

 --マーの言うことには必ず理由がある。

 打開策の見えない閉塞感はあったものの、すでにそのことについての確信はあった。
 幼稚園で不登園になったころに比べれば、うろたえも少なかった。いま、この学校に行かなくても当然だ、という直感があった。不安がるマーについて何度も何度も学校まで行き、とくにキューちゃんは毎日のように教室のうしろで見守っていたからだ。

 

 教室では、担任の先生が、できる子、良い子について、再三再四「個人をとりあげてみんなの前でほめたたえる」を繰り返していた。それも、しばしば身振り付きのオーバーアクションで「グーっ!」。生徒の拍手をさえ促していた。

 これがマーにとっては恐怖になったにちがいない。

 先生は皆を満遍なくほめているつもりでも、生徒個々人にとっては単純計算で30回に1回になる。

 がんばったつもりで、次はほめられるんじゃないかな・・・と期待に胸をふくらませる。しかし、それが大多数は空振りになる。「ほめられない」は、思い込みではなく、事実だ。

 先生はいろんなところをほめているつもりでも、授業でほめられるのと、それ以外でほめられることのちがいくらい、一年生でもわかろう。
 マーの場合、作業のペースが合わないままなので、授業では「できない」経験ばかり。先生が手伝いに入ってくれたりするけれど、かえってそれは教室で恥をかかされているようなものだろう。

 クラスでは、上のノリで「優しい子」が顕彰される。マーはまじめなので、一所懸命に「優しい」を実行しようとしたにちがいない。「でも、他の子がさっさとやっちゃう」。それどころか、自分が「優しく」されてしまう。

 学校全体に善行報告制度がある。校長室前に次のような用紙が置いてあって、投稿できるのだ。

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 図書館利用ランキングもある。小学校一年生で、である。それがまたクラスで発表され、顕彰される。

 このように、人格にかかわることや、その子の自由にまかされるはずのものまで、学校生活のあらゆる局面が、ほめられる/ほめられない、の二分法になっていて、ほめられ競争になっている。

 マーのクラスの場合、それが名指しで学級通信にまで書いてある。つまり、他の家庭にまでさらされることになる。いわば「毎日が運動会」のようなものだ。

 

 秋の学芸会。学年全体で「ねずみのよめいり」にとりくんだ。よくできた。しかし、この前後関係からすると、かえってその「できすぎ」が気になる。

 お話はいい。--自分たちが一番、という結末。それも、親があれこれと気をもむより、子どもはきちんと答えを見つけてくる、と。

 が、その練習の過程が「お前はだめな子なんだ」というメッセージに満ちているとしたら、こんな皮肉があるだろうか。

 日ごろ、ほめているはずの先生がきびしくなり、主役の子にあれこれと注文が飛ぶ。これは怖かったはずだ。日ごろ、ほめているけれど、実は・・・

 学芸会がおわったあと、親の幾人かが書いた感想文が、教室で読み上げられたという。名前も出して。それもみんなで拍手したのだとか。(学級通信にそう書いてあった)。

 親まで「比べられ競争」に巻き込まれてしまう。

 

 幼稚園での行事も同様だったが、とにかく行事が「そこにある」。いまここのこの子たちにとっての「意義」は、すでに定式化されている。それを個々の子がどのようにして経験したのかは問われない。それでいて「子どもたち」「生徒たち」ががんばった、と、まとめられる。

 苦しんだ子がいるということから何か反省がなされる、ということはない。学級通信でもその「意義」「成果」ばかりが書かれる。反省材料や教訓は書かれない。

 「どうですか? こどもたちの堂々たる姿」。校長先生は学芸会の挨拶で胸を張る。しかし、マーの舞台裏の姿は「ビクビクした姿」にほかならなかった。

 

 授業も同様。
 基礎的な文脈がすでに「おまえはだめな子だ」と語りかけてきている。
 「先生は本当はほめてないんだよ~! 本当は怒っているんだよう! マーだけだめなんだよう」。

 いやきっと、マーだけではないと思う。
 授業中、求めてもいないのに「できました、できました」と声をあげる、優等生たちの姿。
 「心のこもったプレゼントだね。大切にするよ。友達って、いいね」。歯の浮くような言葉を羅列した模範作文。
 遅刻したマーのランドセルにとりついて教科書を出したりするのを手伝おうとした両隣の男の子。
 この子たちにとっても教室は「ほめられなければならない」という恐怖の時間・空間なんだと思う。

 

 この文脈のうえで、二年生になり、九九が覚えられただのなんだのが始まり、テストが始まったら・・・クラスが変わり担任が代わっても、同じ負のスパイラルが続くだろう。

 

 同じ境遇なのになぜうちの子だけが? 
 それが落とし穴だ。
 うちの子だけがおかしな感じ方をしているのではない。いわば「炭鉱のカナリア」だと思うべきだろう。危険を真っ先に感知し、皆に教えてくれているのだ。

 

 5  内的自己処罰

 もうすこし淡々と日常を進めていただくことはできないものか。日常ですこしおちついたと思ったら、すぐ行事がやってくる。

 その日常の文脈がまた問題だ。人前で顕彰したら自己肯定感を増すことができるという考えがあるとしたら、人間理解が浅薄すぎると感じざるを得ない。

 

 自分の力でできるようになりたいと感じるさかりの年頃、ただでさえ、できる・できないは気がかりになるだろう。個人を皆の前で褒め称える行為によって、その気がかりが、他の子との比較・競争として、枠づけられている。

 いってみればテスト結果が壁に貼り出されるのと同じだ。--毎日が公開処刑

 いや、それより過酷かもしれない。
 たとえを続ければ、良い子のばかりが貼り出されるわけである。そうして「貼り出されなかった」(つまり「ほめられなかった」)ことについては、先生がそれについて説明することはなく、生徒が自分でその意味を読み取らされる。これは「自分が内面で自分に対してする処刑」、つまり内的自己処罰となる。

 道徳的な教えや善行の推奨も、ほめられなければならないからするもの、になってしまうのでは、本末転倒だろう。弱い子探し、だめな子探しになる。優しくされることは、だから負の烙印だ。

 けれど、先生たちの目にはそれが生徒同士の「すてき」な助け合いや注意しあいに見えているとしたら? これを屈辱に感じてしまうほうが「受け止め方がヘン」になってしまうだろう。負の烙印がさらに追加される。

 

 マーはただまじめなだけ。それを素直に読み取っているだけだ。

 

 6  生活史

 生活史のなかに、とくにそうなる背景もある。マーには悔しい思い出があるのだ。

 

 幼稚園時代、特定のお友達が毎日とりついてきて、「私のほうができる」の優越感を見せつけてきていた。(その子にもいろいろ事情は想像できるので、一方的にその子を悪い子扱いしようというわけではないが、ここでは触れない。ただ、優劣関係の重層構造なのだ、とは言っておこう)。

 しかも、その子がいろいろな役や代表を射止める。しかし、マーは最後までそれが当たらなかった。

 何度も泣いて帰ってきては地団駄踏んだ。

 その子から、「どうせあなたはできないし性格も悪い」等、呪いの言葉をあびせかけられた公算もある。「他の子がほめられること」や「他の子から助けられること」を、「自分はだめな子」という屈辱、悔しい優劣関係として経験してきた。

 

 もちろん、克服体験もしてきた。ブランコで自慢されて悔しがっていたので、休日に公園で「とっくん」にとりくみ、上手になった。その経験を覚えているのだろう、今も、体育のことを気にしながら、私が帰宅してから、夜に時々、公園でダッシュと縄跳びの練習をしている。

 母親が付き沿って宿題にも取り組んでいるし、いきなり授業になるのではなくて教科書の下読みなどもするようにした。

 が、宿題のほうは、だんだん、取り組みがのろくなっているように見える。漢字の書き取りなどは、だいたい良いのに、何度も何度も消しては書き直す。ノート一頁の書き写しに30~40分かかってしまう。「だいたい良いんじゃない?」と言うと、猛反発して「直されるんだよ!」。

 家では科学の本とか図鑑などを喜んで見ているのだが、「勉強」はだんだんいやになってきているように見える。当人的には「がんばってもどうせ認められない」という経験になっているのではないか。

 

 「他の子がほめられることがトラウマのようになっている」と考えると、他にも理解できることがある。

 たとえば、うちでも、テレビに出ているプロのピアニストについて「上手だね~」と言っただけで「私は下手なんだよ!」と怒り出した。

 最近、学校で誰かが「あの子、かわいい」と言ったのが耳に入ったらしく、そのとき以来、鏡を見ては「私、かわいくないんだ」「もっとかわいくなりたいよ」と繰り返すようになった。

 これはちょうど、たとえばカップルでテレビを見ていて、幼稚な男がテレビのアイドルについて「かわいい」を連発していると、女性側には「お前はかわいくない」という裏メッセージになってしまいかねない、というのに似ていないだろうか。そこから取りなしても、もう遅い。今、マーのなかでは、どんなにほめられても、「本当はほめられていない」という裏メッセージを強めるばかりなのだ。

 

 マーはそういう「言外のメッセージ」を読み取り、それを言葉にする力がすごいので、それが自己否定発言になっている。

 「そう見なされているにちがいない」という推論、訴えなのである。

 

 できるようになりたいという心はもちろん大切で、悔しい思いをしてきたら応援するということも必要だろう。
 しかし、今の文脈で「できるようになればよい」と考えるのは、非常に危険だろう。現状のままでは、がんばってできるようになったとしても、2番になったとたん無価値になり、存在理由を失う。

 

 7 転校を考えることに

 行きたくても身体が止まっている。

 --状況を考えると「正常な」反応ではないだろうか。

 解釈の当否はともかくとしても、小学校一年生にここまで言わせる状況に何か問題があるのはまちがいない。当人の性格や生活史にも要因があろうが、それがマイナスにばかり増幅されているなかで「あなたの感じ方」を問題にすると、当人にとって最後通告に等しく、いっそうひどい自己否定につながりかねない。

 

 親としては、もうこれ以上に登校を無理強いしたくない。危険を感じる。

 強烈に嫌がるので無理強いもできない。

 かりに登校したとしても、これ以上にマイナス体験ばかりさせることが良いとはとうてい思えない。

 

 自分たち親の責任を棚に上げた学校バッシング、ではない。マーを信じる、ということ。責任をもってマーの言葉を聞くということ。

 ネガティブな諦めではなく、イヤダと言える子の力を喜び、それを表現できる雰囲気をまがりなりにも保てたことを喜ぶ、ということ。

 

 私たちは「転校」を考えることにした。

レッテル考

身振り手振り おっと・とっと 子育て

 最近、ある小学校で防災教育の授業を見学する機会を得たおり、その冒頭が「親からもらった大事ないのち」をノートに書き写させる、ということだった。
 はてさて、なにも道徳と結びつけんでも・・・後日あらためて考えてみると、これじゃうまく避難できんかった人は「親不孝者」になってまうやん・・・と。
 つまり、「ラベル」「レッテル」を、指さし名指しの明示的な名づけとしてではなく、「言外の暗示」「論理的な含意」として考えることができるのではないか。
 「サルでもわかる物理学入門」みたいなタイトルの本があったとして(どこかで見た気がする)私は買う気になれない。もしわからんかったら「おまえはサル以下だ」になる。言い換えれば、「理解強制装置」だ。
 「いのちの教育」において、教室で誰か表彰されたりしたら、それ以外の人には「いのちの大切さもわからない人でなし」を意味してしまわないだろうか。心配される意図せざる効果、事実上の逆効果として。
 「やさしさ」が推奨され、善行を先生が名指しで誉め称え、皆に拍手をうながしたりする教室では、それと同様の「負の烙印」が発生していると考えられないだろうか。
 「私、やさしくない、悪い子なんだよ」とつぶやくようになったうちのマー(娘6歳)は、そのことを率直に読み取っているのだと思う。
 私だっておんなじだな。「補助金」があって初めて「エフォート率100%」になる、それが奨励され評価項目になっている職場では、「資金が取れない私ゃ、どーせろくすっぽ仕事もしてない役立たずでございますよ、ええ、能ナシでけっこうですから」って、ひねくれたくなる。
 --誰もそんなことを口にしなくとも。

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ルールのルール

身振り手振り おっと・とっと 子育て

 どうやら「きちんとまもらなければいけないルール」と「てきとうにやぶってよいルール」があるらしい。でも、どちらがどちらなのか、わからないんだ。

 たいてい「まもらなくてもいい」みたい・・・というか「まもってはいけない」ことらしいんだけれど。

 

 たとえば、こうさてんの「とまれ」はぜったいにまもらなければいけない。とまって、みぎ、ひだり、みぎ、って、みてからわたる。でないと、おとうさんもおかあさんも、まじめなかおになって、「あぶないよ!」とちゅういする。

 でも、「50」てかいてあるみちで、おとうさんがくるまで50ではしっていると、たいていおいぬかれる。「あれはいけないくるまだ」とおとうさんはいうけれど、おとうさんだってときどき「55」くらいになっている。「まぁこのくらいはいいんだ」って。

 

 けいさんの「おてほん」は、きちんと、そのとおりにやらないと「まちがい」っていわれる。

 なのに、ひらがなやかんじの「おてほん」は、そのとおりにかきうつしていたら、ぜったいにまにあわない。いつもせんせいがあかペンでなおすから、ひゃくてんがとれない。「100」てかいてあるけど、なおされているから、ほんとうは100じゃないんだよね。

 それでいつもみんなよりおそくなって、マーはだからじぶんがだめなこだとおもって、ほけんのせんせいにそうだんしたら、「かんぺきしゅぎだとしんどいよ」っていう。

 じゃあ、ほかのこは、できてないのに「はい、はい」って、てをあげてるのかな。それってずるいんじゃないの? それとも、きまりなんかまもらなくていいの?

 (以上、「マーがもし社会学者だったら」でした)。

「ほめる」の天地

おっと・とっと 子育て

 「図書室利用ランキング」が発表された。うちのマーはクラスで10位。

 よかった、ほめられて・・・という話ではない。

 「小学校一年生」に図書室利用ランキング? それを聞くだけで私などは暗澹たる気分になってしまう。

 

 なぜこうなるというに、おそらく「ほめる」ことと「人前で顕彰する」こととが混同されているからではないか、と思う。

 

 うちでも「ほめて育てよ」を心がけているが、ほめるっていうのは、できないものを無理にほめることでも、やたら賞賛することでもなく(そんな無理矢理のほめかたはおかしいと子どもだって気づく)、ましてや厳しく特訓してできたらほめる、っていうのでもない。それらは根本に「否定」を含んでいる。えてしてそこが伝わる。

 そうではなく、できなくて悔しがっていたら一緒に悔しがり、何かできたら一緒に喜ぶ、そういう意味での「受容」が基本なんだと思う。「苦楽をともにする」とでもいえばよいだろうか。

 だから、「今日は疲れたな!」とか「このパスタおいしかったね」っていったことも十分に「ほめる」なんだと思う。「字が上手になったね」も、そういうことだ。

 

 ところがこれが教室状況となり、先生が生徒を人前でほめるとなると、同じ「よくできたね~」も、とたんにややこしくなる。というのも、みなに対して冷淡(といって悪ければ淡々とした態度)になっても「公平」ではありうるが、ほめ始めるとたちまち「不公平」になりうるからだ。

 つまり、子どもからみて、他の子がほめられれば、自分が「ほめられなかった」ことになる。(「ほめて育てるから打たれ弱くなるのだ」という人があるが、それはおそらく事実誤認を含んだ謬見である。特定の子をほめることが他の子を「打って」いることに気づかねばならない)。

 

 授業でできる子は目立つ。おのずとほめられる。でも、それだけをほめていたら、この不公平が埋められない。

 だから、級友に対してやさしい行動をした人も、やっぱりほめなきゃいけない。帰りの会で拍手。

 お掃除でがんばった人も学級通信でとりあげてあげなければならない。

 給食の配膳でがんばった人も・・・

 

 きっとそんな機序で「ほめる機会をつくるために、あらゆる局面で序列が作り上げられている」という結果になっているのではないだろうか。

 それが子どもにとっては「生活のあらゆる局面がほめられるための競争」になってしまっていないだろうか。

 

 そんな下地のなかでは、授業中の作業の早い遅いも、子どもにとっては重大な意味を持つことになるだろう。

 

 今日は授業参観。最初は先生の字の書き写し。静かに書き写す子どもら。と、そこここから「できました」「できました」という声。

 先生は「静かにゆっくりやっている人もいるから黙って教えて」とフォローしてくれたけれど、止まらなかった。

 作業の遅いマーはもう落ち込んでしまって半べそ。書き写すべき文章もお説教みたいな内容でつまらなかったのだろう。作業が遅いというよりも「わからーん」という拒絶反応みたいだった。

 先生が机の前でしゃがんで応援してくれるが、居並ぶ保護者の面前で自分だけ先生に助けられている。気分は最悪だったろう。途中でふらふらたちあがって保護者席まで来て「つかれた~」、ダウンしてしまった。

 

 本人にとって入りやすい話題・課題と、そうでないものとの差が大きいのかもしれない。励まして着席させ、別の教材が出てくると、がぜんゴキゲンになった。

 得手不得手はあってよい。けれど、それが個性の認識ではなく、なにもかも優劣として経験されていないか、そしてその「劣」体験が「できる」ことまで塗りつぶしてし、それが否定的な自己観念を強めてしまっていないか。そこが心配だ。

 

 ほめるのは、人が見ていないところで、マーだけに、こそっと、一言、やってもらえないものだろうか。(もちろん、他の子にも)。そのほうがよっぽど「先生が見ていてくれる」気分にもなると思うのだが。

そりゃあいやにもなるわね: 「やさしさ」の病理

おっと・とっと 子育て
  1

 ここのところ、帰るとたっぷり報告が待っている。ネガティブな自己イメージがとても気になる。

  「わたし、あたまがわるいんだよ。かんがえるちからがないんだ。ゼロなんだよ。さんすうのけいさんで、ゆびをつかわないと、できないんだ。あたまでできないの。ゆびでやろうとしたら、となりのKくんがゆびでやっちゃだめっていうんだよ。みんなできるんだ。マーだけできないんだよ。かきうつしのときも、なかなかできなくて、はっとしたらたいいくがはじまりそうになって、しまったー!となって、せんせいにてつだってもらって、やっとまにあったんだよ。いつもマーだけおそくてだめなんだよ。どうやったらかんがえることができるのか、わからない」。

 はじめはニコニコしているのだが、語るうちに自分の境遇の不幸が際立ってきて、半べそになる。

 いや、単に訴えるための強調という域を出ている。「いつもわたしだけ」「わたし、ばかなんだよ」「ちっともわからない」「ぜんぜんだめなんだ」などと自分を全否定し、自分で頭を小突くようになってきた。

 小学校一年生。一学期のように「学校がいや」「引っ越したい」「転校したい」とは言わなくなり、毎日遅刻ののろのろだが、欠かさず行くようにはなっていた。相方のキューちゃんか、時おり私が、毎日、送っていってはいるが、それが無理を強いているのかも知れない。朝の「あたまがいたい」「おなかがいたい」も、もう慣れっこになって、あまり気にしなくなっていた。

 深刻だ。

 

 2 

 最初、ドラえもんの見過ぎかと思っていた。のび太に同調してしまうのだ。

 おかげであやとりが大好きになったのはいいものの、あの世界、のび太くんはバカにされてばかり。みんなから笑われ、からかわれ、先生はしかるばかり、親は怒鳴るしか能がない。受け入れてくれるのは、思い出のおばあちゃんとドラえもんだけ。

 でも、そのギャグがおもしろいのか、いろんな道具が興味深いのか、様式に固まりきった物語り構造が安心できるのか、何度も何度も見る。ドラえもん道具図鑑はもうすりきれそう。

 それで、なんでも「できない」「笑われる」で枠づけられてしまうのだ。

 ・・・というように最初は推測していたりしたのだが、どうもそれではないようだ。いろいろな言い回しやボキャブラリーをそこから得ているのは確かだが、まぁ、いわゆるところの「メディアの影響力」に支配されきってしまうほど、こどもも受動的な存在ではあるまいて。

 話を聞くうちに、「いじめ」や「からかい」、あるいは物理的な「暴力」とは逆、教室ですすめられている「たすけあい」や「やさしさ」が原因ではないか、と。

 

 3

 先日の朝、不安になったらしく、送っていってくれという。一学期ほどぐずぐずはしないが、なんだか足取りは重い。遊びを入れ、かけっこにして行ったが、昇降口のところでぴたっと止まってしまった。小声で言う。

 「ふあんていだから、みていて」。「きゅうしょくまで、いていいよ」。

 久しぶりにつきあいますか。

 なんやかやで、ここのところ、土日以外はあまり遊べていない。夕べは遅くもなってしまった。そのツケというものだろう。本当にいやなことがあったかどうかはさておき、聞いてほしい、見てほしいもあるだろう。

 スリッパにはきかえる。教室では、一時間目はまだだが、もう、本の読み聞かせタイムが始まっているのか、声が聞こえてくる。最近の教育方針なのだろう、戸は前も後ろも開け放し。机はいちばん前なので、前からそろっとマーを送り入れると、私にとってはびっくりすることがおこった。

 マーが足取りも重く机のところに近づくや、両隣の男の子2人がさっと立ち--そのうち1人はいつもうちでグチの対象となるAくんだ--重たいランドセルをおろすのを手伝ってくれ、そればかりか、ランドセルの中から教科書やら漢字練習帳やらノートやらをとりだして机の中にどんどん入れてくれる。

 こういうのが前にもあった。遅れていったマーを昇降口で見つけるや、やはり男の子数人が取り巻いてきて。そのときは、まー親切な男の子たちもあったもんだ、マーは案外に人気者なのか?、という程度に見ていたのだが・・・

 

 「やさしさ」をクラスですすめているのである。

 やさしさに気づいたら、その人に拍手する。帰りの会で、そういうのをやっているらしい。

 通信によれば、まだまだ自分のことで精一杯、周囲に気配りもできないけれど、やさしさを見つけた日にはクラスがやさしい雰囲気に包まれます、とか。

 まぁ、自分ばかりのことではなく、周囲の様子に注意するのは大切なことだろう。それはそれで大切なことだ。

 けれど、ちょっと遅れて「しまった」と思っている子にとりついてあれやらこれやらと世話をやくのは、その「しまった」感を強めてしまうのではないだろうか。

 そういえば、授業中の練習などでも、「早くできた人が遅い人を手伝ってあげる」というのがあった。

 正直、これはやめてほしい。

 マーは「自分でやりたいさかり」なのだ。親の私たちだって、へたに手を出すと「自分でやりたかったのに!」と、「超」レベルで怒られる。しかも、凝り性ペアの娘、字が少し曲がったとかが気になるらしく、何度も何度も書き直し、作業のほとんどでいちばんビリになる。

 親切とは、「自分ではいかんともしがたい状況に陥って困っている人」とかSOS信号を出している人に対してするものであって、「自分でなんとかしようとしている人」にやたら手を貸すことではあるまいに。

 原因はこれだ、これだけではないかもしれないが、少なくとも大きな要因の一つにちがいない、と思った。

 

 さらに翌日、キューちゃんが迎えに行ったら、昇降口に出てくるや、今にも泣きそうだったとかで、その場で居残り、急ぎ先生と面談してもらった。

 彼女も同じ意見。自分でやりたいので、あまりに世話をやかれるのがいやなのではないか、本人は、保育園時代など、小さな子の面倒をみたりしたくらいなのに、幼稚園では身体が小さいというだけで、ごっこ遊びの妹役や赤ちゃん役を強いられ、いやな思いをしたようだ、等と伝える。

 自分を目下にしたてあげることで周囲が「おねえさん」になっていく。この序列化の苦痛だ。

 作業がおそいのは、100点でも赤ペンで直されるから、あるいはじっくり考えたり丁寧にやりたいからであって、わからないからではない。家庭ではお絵かきなんか1時間以上もとりくんだりする。無制限というわけにはゆかないだろうけれど、すこしはそのペースを尊重してもらいたい、と私も思う。

 

 4 

 お友達がなければならない、お友達同士はやさしくしなければならない、という雰囲気が、とても重い。

 

 教科書に載っているおはなしも重たい(と私は思う)。

 熊の子が貝殻をひろってきた。ウサギの子に、どの貝殻が好き? 尋ねると、しまもようのが好きだという。困った。桃色のが好きという答えなら、おみやげにあげようと思っていたのだが、熊の子もしまもようの貝殻がいちばん好きだったのだ。一晩考えて、熊の子がもってきたのは、しまもようの貝殻。大切な友達だから、いちばん好きなのをプレゼントすることにした、という。よろこぶウサギの子を見て熊の子もうれしくなりました、と。

 --さあ、「ありがとう」というウサギの子が、それに続けて何か言うとしたら、なんて言うでしょう。見ていた日の「こくご」の授業ではそんな作業になった。

 

 私が一年生だったら1行も書けないだろうと思った。

 自分の周囲にそんな現実がない、というか、なぜそんな親切なことをしてくれるのか理解できない。

 マーもそうだったらしく、他の子がどんどん書いて「先生、できました」という声が挙がり始めても、鉛筆を持ったまま、こおっちゃっている。

 (おみやげを自慢ばかりするスネ夫のび太ならどう反撃するか、という問題だったら、喜んで取り組んだだろう)。

 

 私が一年生だったなら--実は、私は6歳の4月にみんなと一緒に小学校に入ったわけではなく、すこし遅れて入学したのは覚えているのだが、入学後しばらくの記憶がまるでない。だから、どうもあやふやな想像にすぎないのだがーー「いらない」という答えを、たぶん思いつく。

 保育園のころ、同級生が持っていた手裏剣のおもちゃがほしくてほしくてたまらなかった私は、つい、それを盗ってしまう夢さえ見たことがあったからだ。それで、人が大切にしているものをむやみにほしがっちゃいけない、と思うようになっていた。

 やたらほしがってはいけない、というのはマーも同じらしく、お店で「これ買って買って買って~」の座り込みは何度もあったけれど、子育て支援スペースなどで他の子とおもちゃの取り合いひとつしたことがない。ぶつかりそうなら、自分から手を引く。これまで、小さな子に囲まれた保育所もあったりして、まず遠慮、が身についているのである。

 だから、小さな子にゆずるのは理解できる。が、「おともだち」--この言葉も要注意で、マーにとり、幼稚園以来、「おともだち」とは同級生の同義語、「別に仲良いわけじゃないクラスメート」を言い表す言葉をまだ知らない--が、なぜそんな親切なことをしてくれるのか、わかりづらかっただろう。

 それに、そもそもマーは「貝殻」を集めにいったことが、まだない。2011年に1歳だった。海に近づける状況ではない(仙台在住)。この夏、初めて海水浴場に行った。貝殻の縞模様とか桃色とか言われても、想像しづらいだろう。科学図鑑はよく見ていて、恐竜とか惑星とか草花なら詳しいのだけれど。(津波被災地でもこの教科書を採用しているのだろうか?)

 私だったら--この中では縞模様のがいちばん好きかもしれないけれど、そもそも貝殻がほしいと思っていたわけじゃないし、とってきてと頼んだわけでもない。桃色と縞模様と、本当に好きなのはどちらか、実はあまり自信がない。だいたい、自分が熊の子くんをそこまで好きかどうかもわからない。けれど、「いらない」とか「困ったなあ」が先生がよろこぶ答えじゃないということも、想像できる。そういう状況に陥ったかもしれない。

 これは、6歳児の推論能力を過小評価した教材、あるいは、規範の伝達を目的にした教材ではないだろうか。

 

 はい、っと手が挙がる子の答えは過剰同調のものがめだつ。「こころのこもったぷれぜんとだね。たいせつにするよ」。

 先生はそれをほめたけれど、私は「こんどおれいをしなきゃね」も素晴らしい答えだったと思う。

 一方的に「贈与」されるばかりの心痛を想像してみるべきだと思うのだ。

 

 5 

 マーは、一方的にやさしくされるばかりの状況、言い換えれば、「やさしさ」の推奨が「だめな子探し」になっている状況、もっと言えば、やさしくして拍手を得ようとする一部の子の態度が、自分をかわいそうな子、だめな子におとしめること、それがつらく、悔しかったにちがいない。

 近々、先生にそのことを話して、相談するつもりでいる。